近年、ビジネス界ではSDGsやESGなどの重要性が叫ばれ、「サステナビリティ」という言葉に大きな注目が集まっています。他方、「デジタルトランスフォーメーション(DX)」がバズワードになりつつあるのは周知の通りですが、企業におけるDXの重要性はむしろ高まっています。このように、ポストコロナの時代に向けては、「サステナビリティ」や「DX」が企業の戦略的中心テーマになるという見解を聞くことが多くなってきました。しかし、この2つのコンセプトが互いに深く関係し合うものだと発想する方は、まだ多くないかもしれません。

そのような中、現在の事業課題に対して行っているDXと、未来を見据えて行うDXを同時に推進する「両利きのDX」に取り組み、50年先の社会を想像しながら30年先の理想を模索するなど、「サステナビリティ」を重視して経営の方向性を定義しているのが、株式会社三菱ケミカルホールディングス(以下、三菱ケミカルHD)です。

本稿では、KPMG Ignition Tokyoの茶谷公之が、三菱ケミカルHDでグループ全体のDX推進の中心として活躍されている浦本直彦 執行役員 Chief Digital Officerと対談した内容をお伝えします。(後編)

社内にデータサイエンティストが増えている

浦本氏、茶谷

(株式会社三菱ケミカルホールディングス執行役員 Chief Digital Officer浦本直彦氏(左)、株式会社KPMG Ignition Tokyo 代表取締役兼CEO、KPMGジャパンCDO茶谷公之)※記事中の所属・役職などは、記事公開当時のものです。

茶谷:          先ほどのようなLCA(ライフサイクルアセスメント)を進めるにあたって、データを解析する必要が出てきますし、それに伴ってデータサイエンティストの需要が高まってくると思います。すでにそういうチームは社内に立ち上がっているのでしょうか?

浦本:          そうですね。3年前に我々がDX推進に着手し始めた時は、統計的機械学習を使って課題を解決するデータサイエンティストはうちのチームにしかいなかったのですが、3年を経て、いまではいろいろな組織の中にデータの分析ができる人が増えてきています。

茶谷:          社内での他の業務に携わっていた人がデータサイエンティストを目指して、実際になったケースもありますか?そういうときはトレーニングやOJTなどをするのでしょうか?

浦本:          そうです。まず、人事制度として「社内公募を通じて人事異動する仕組み」があり、その制度を使って新たに私たちのチームのメンバーになった方が何名かいます。みなさん生粋のデータサイエンティストというわけではありませんが、これまでの業務でなんとなくいろいろなデータを使って分析をしていて、「これは凄くおもしろいな」と感じていたという方が多いです。実際に、最近はユーザー企業の方が多くのデータを持つようになっていますし、データサイエンティストにとって刺激的な現場になりつつあると言えます。また、各地にいるデータサイエンティストあるいはデータ分析に興味を持つ社員のネットワークを作り、分科会や社内コンペを実施するとともに、2019年より、DX人材の教育プログラムを立ち上げて社内人材の底上げも図っています。

この先、事業にディスラプションが起こるとしたら?

茶谷:          三菱ケミカルHDにおいて、次に不連続な進化が起こるとしたら、どういうものになるでしょうか?

浦本:          ビジネスモデルの領域だと、いかにモノ売りからコト売りに変革できるかということだと考えています。技術領域では、三菱ケミカルの研究所で量子コンピュータ活用研究を始めているので、そこから何か起こるかもしれません。量子コンピューティングも「すぐには使いものにならない」と言われていますが、「マテリアルズ・インフォマティクス」と一緒で、本当に実用化されるとR&Dの分野が革命的に変わる可能性があると考えています。三菱ケミカルの研究者が大学やIT企業の研究者たちと一緒に研究しているところに私たちもサポートで入ることがあるのですが、その取り組みはやはり見ていて面白いです。

茶谷:          我々も量子コンピューティングには非常に興味を持っています。「Machine Learning Tokyo」という機械学習と人工知能の民主化に取り組むコミュニティーと提携し、相互に意見交換の場を設けたりしています。

浦本氏、茶谷

量子コンピューティングについて、我々の場合はトランザクションデータの異常値や制限値、循環取引みたいなものを検知する際に使えるのではないか、と考えています。化学式も取引もある意味でネットワークだと考えています。

浦本:          量子アニーリングの場合、良い問題が定義できれば、現行の半導体技術で圧倒的に早いスピードで解ける可能性があります。また、量子ゲート型コンピュータの上にAIやグラフのアルゴリズムを載せていく、というのも研究テーマだと思います。

茶谷:          あとは耐量子暗号でしょうか。そろそろ規格が決まると思います。特にファイナンス系は暗号が解かれてしまうと、すべての事業基盤が台無しになってしまうので、今後の動きに注目しているところです。

浦本:          どのくらい量子ビットがいるのか、現実的に得られる量子ビットでなにを行うのかという話もあるのでしょう。また、量子に限らず、DXにおけるセキュリティ課題の議論も重要になってくると見ています。

三菱ケミカルHDが見る、50年先の社会

浦本氏、茶谷

茶谷:          さて、三菱ケミカルHDでは「KAITEKI経営」という言葉を掲げられていますね。「KAITEKI」とは、「人、社会、そして地球の心地よさがずっと続いていくこと」を表し、環境・社会課題の解決にとどまらず、社会そして地球の持続可能な発展に取り組むことを提案した三菱ケミカルHDのオリジナルのコンセプトだと聞いています。その中でDXを考えたときに、10年後、20年後、どのような形になっていると思いますか?

浦本:          2020年2月に「KV30」というものが新たに示されました。「KV30」は「KAITEKI Vision 30」の略で、2050年のあるべき社会と会社の姿を定めて、そこからバックキャストして2030年にどういうことをやっていなければならないか、どうありたいのかを描いたものです。これを念頭にしながら中期経営計画を作ることになっています。

「KV30」では、目指すべき社会は「最適化された循環型社会」「Sustainable well-being」とし、それに対して自分たちは「社会課題に対する継続的なソリューションの提供をする企業になる」ということを謳っています。KV30の実現に向けて、フォーカスすべきソリューション領域が提示されているのですが、そこにデジタル技術がどう貢献できるかということをいままさに議論しているところです。

そこはサステナビリティの話だったり、働き方改革の話だったり、先進的な技術の話だったり、いくつかありますが、やはり「それらを見据えたDXの推進は非常に大事になってくる」というふうにチーム内でも捉えています。

茶谷:          そういう未来の議論はどんな形で進められるのでしょうか?

浦本:          できるだけ社内の“見えやすい場所”で行いたいと思っています。例えば、社内のソーシャルメディアやチャットルームみたいなものがあるのですが、それを使って漠然としたトピックも含めて意図的にみんなが見えているところで議論しよう、という前提があります。ほかにも、調査会社を使ってスキャンして情報を反映させたりもしています。ただ、今回のコロナ禍のように変化が非常に激しくなり、なかなか2030年ですら見通しにくい社会にもなってきているので、難しい部分もあります。そんな中でDXの担う役割は、いかに変化に強い会社にするか、ということなのだと考えています。

茶谷:          何がきても大丈夫、という体幹を鍛えることですね。

浦本:          変化に対するアジリティや適応力みたいなところが求められるのだと思います。実際に、いまのこの状況は誰も予測していなかったことだと思います。

茶谷:          ちなみに、三菱ケミカルHDでは新型コロナウイルスによる影響はあったのでしょうか?

浦本:          そうですね、DXに限っていえば、在宅勤務やオンライン会議への移行といった変化が起きたこともあり、「コロナ禍はDXの立役者」と言える部分もあります。

もちろんコロナ禍による問題は大きいのですが、会社のITリテラシーに関して言えば物凄く上がったのです。プラント操業に携わる方々はそうはいきませんが、いまも本社勤務の社員のほとんどは出社していない状況です。そして、それでも仕事が進んでいることに皆さんも気付いています。今後は「いかに元に戻さないか」が大事だと思います。

私は、「Build Back Better」という都市計画などでよくつかわれる言葉が凄く好きで、「復興の際には前よりもより良くしよう」という意味が込められているのですが、いまの状況と似ているところがあると思います。これだけデジタル基盤を使ってできることが増えているのだから、非常に大きなチャンスと言えるのではないでしょうか。

一方で、このような時代だから、茶谷さんもForbes Japanへの寄稿で指摘されていた通り「智慧って偉大で、知識から智慧に変えていくことが大事だ」と思うようにもなりました。

茶谷:          そうですね。確かにAI将棋の指し手のように、特定の分野ではAIが人間の智慧を超えてきた例もありますが、まだまだ智慧は重要だと思います。

浦本:          今日、データは非常に重要ですが、智慧や、化学会社の場合は配合レシピやプラント操業のノウハウがそれにあたり、そこが他社との差別化要因だと思っています。

茶谷:          実はどの会社でもそういう智慧というものは眠っているのだと思います。例えばソニーではウォークマンを開発する際、「できる限り薄く」というテーマがあったのですが、試作機が出来て上司に持っていくとバケツにはった水に浸けられ、泡が出てくると「空気出るからまだ改善できる」と突き返された、という逸話がありました。

もちろん、機械なので、漏れ出す空気がゼロになるほど密閉することが必ずしも良いわけではないのですが、「泡が出るかどうかで空間があるかどうかを確かめる」という方法って、あっという間に説得できる、議論不要に納得させられる上手い手ですよね。言語化できないものを見せる、という智慧だと言えます。このような智慧はどの会社にもあるはずです。

浦本:          そういった“社内の神様”みたいな存在がもう高齢化し始めているので、「社内にある智慧をどうやって残せるのか」を考えることも大切なことだと感じます。そして、残す手段としてデジタルの力も活用できると考えています。

データを大量に収集することも大事ですが、データを智慧へと変換し、蓄積していくことが他社との差を生み出すのではないかと思います。

対談者プロフィール

浦本氏

浦本 直彦
執行役員 Chief Digital Officer
株式会社三菱ケミカルホールディングス

1990年、日本IBM入社、東京基礎研究所にて、自然言語処理、Web技術、セキュリティ、クラウドなどの研究開発に従事。2016年、Bluemix Garage Tokyo CTO。2017年、三菱ケミカルホールディングスに入社し、人工知能やIoT技術を活用したデジタルトランスフォーメーションの推進を行なっている。2020年4月より 同社執行役員 Chief Digital Officer。2018年-2020年6月、人工知能学会会長、現在九州大学客員教授を兼務。2020年より情報処理学会フェロー。